ブログ
読書散歩【3】アルベール・カミュ著『ペスト』 (2021/7/26)
【3】アルベール・カミュ著『ペスト』宮崎嶺雄訳。新潮社文庫。1969年刊(1979・18刷)
アルベール・カミュの『ペスト』は、長い間、うちの本棚で眠っていた。『ペスト』は昨年、コロナ禍によってよく読まれたようだ。(2018年のNHKの「100分de名著」で、すでに取り上げられていて、先日再放送もあったようだ。けれども、新型コロナウイルスの感染拡大が日常性を侵食してゆくなか、分厚い『隔離の島』(ル・クレジオ著、筑摩書房、2013)は読み終えたが、『ペスト』はいまだ、眠りから目覚めなかった。
新潮社文庫のこの一冊を、手に取ったのは、映画『アルベール・カミュ』(2010年。フランス)を観てからである。作家の晩年を描いたこの映画で、カミュという人間への興味が湧いたようだ。『ペスト』は、ナチスドイツ占領下のヨーロッパにおける出来事や人々の心の有りさまを、アフリカのフランス領アルジェリアの港町オランにおけるペスト禍に重ねるように描いたものだという。そのベースを知らなくとも、読み始めた途端に、私はその世界に引き込まれていった。思えば、ペストというと、私は中世のヨーロッパを思い浮かべていた。けれども、「194※年」という近代の話で、しかも、コロナ禍にある日本の地方都市に住む私の暮らしにも通じる回路が、そこには開かれていた。
作者の経験に基づく文章の説得力なのか、訳者が優れていたのか、翻訳にも関わらず、読むことはひとつの経験と近しいものだとさえ感じられた。終わりが見えない極限状態のようなペストとの闘いのなかで、冷静沈着な医師リウーは、時に心を砕きながら、ともに生きている人の声に耳を傾け、その心の有りさまに思索や想像をめぐらせる。そのように、一冊の本に描かれた、異なる世界に身を置き、眠っていた想像力を働かせること。
読み終わった後、何かの分かりやすい答えや安堵感をそこに見出すというだけではつまらない。いわば突き刺さった棘の痛みのように、読むことで心が揺り動かされる――それは読書の快感、と言っても過言ではないのかもしれない。(2021/7/26)
読書散歩【2】三島由紀夫著『夜告げ鳥 初期作品集』(2021/3)
【2】三島由紀夫著『夜告げ鳥 初期作品集』平凡社
『夜告げ鳥 初期作品集』は三島由紀夫の未刊の本である。『仮面の告白』(1949年)の刊行の一年前、二十三歳の時に自ら企画したが、版元の倒産でお蔵入りになっていた幻の作品集である。三島が手書きでまとめたものを、本人の構成案を忠実に再現して、平凡社が没後50年を記念して2020年に出版した。その全体は、評論と詩と小説の三部から成っている。 通常は最後に来そうな評論が、なぜ最初なのか。それは、三島にとっての実体(核)は評論であり、詩がそれに羽織る衣装、小説はその姿を映し出した鏡であるからなのではないのか。歌舞伎や川端康成の作品について語りながら、その評論は実は「私(三島)」を語ってはいないだろうか。詩において言葉というきらびやかな薄衣からから透けて見えるのは、深い穴(虚無)のようなものであり、小説および戯曲で繰り広げられるのは、現実のように見事に築き上げられた鏡面(幻)の世界なのではないか。この作品集の不思議な構成に対して、私はそんな印象をもった。
この本と一緒に、『芸術新潮 第71巻 第12号(2020/12)没後50年 21世紀のための三島由紀夫』(新潮社)と高橋睦郎の新詩集『深きより 二十七の聲』(思潮社)を読んだ。高橋睦郎のこの詩集の最後は、亡き三島由紀夫との高橋の架空の対話である。生前の三島と縁浅からぬ高橋の詩を読んだ後で、もう一度三島の詩「夜告げ鳥」を読み、ノートに書き写した。「夜告げ鳥」という詩が言葉を超えて告げようとする何かに、少しでも近づくことができればと。『夜告げ鳥』』の解説で井上隆史氏は書いているが、「夜告げ鳥」は東京大空襲の間に書かれたという。海軍への勤労動員中にあった三島が、自宅に一時帰宅していた時、五月二十四日未明から五月二十五日午後十時に空襲があり、その折にこの詩は書かれた。そのことは、詩の末尾の日付にも「昭和二十年五月二十五日」と記されていることからもわかる。第二次世界大戦の東京大空襲は三月と五月にあり、五月のほうが実は焼失面積は大きかったという。三島の自宅は焼失を免れたが、自宅のあった渋谷は焼け野原となったそうである。そういったことを知った上で、「憧憬への決別と輪廻の愛について」と副題されたこの詩を読むと、その言葉の向こうには、空襲の夜空と焼け野原が広がってゆく。煙と匂いが立ちこめ、爆音が響き、警報がけたたましく響き、叫喚のような人々の声が入り混じり、言葉に尽きせぬ様々な思いが漂い始めてゆくようだった。
追記/先日PCで、2020年に公開された映画『三島由紀夫VS東大全共闘50年目の真実』を見た。かつて一人の作家から発せられた言葉の「言霊」は、その後50年を経てもなお、そこには響いていたのではないだろうか。(2021.6.25)
読書散歩【1】小川洋子著『密やかな結晶』 (2020/11/13)
【1】小川洋子著『密やかな結晶』講談社文庫
2020年の英国「ブッカー国際賞」の最終候補作となった小川洋子さんの『密やかな結晶』を読んだ。この作品が2019年には「全米図書賞」翻訳部門最終候補作ともなったということは知らなかったが、今年のブッカー賞のニュースは他人事ながら嬉しかった。小川さんの数ある作品は割と読んでいるつもりでいたけれど、この本は家の本棚にはなかったので、早速購入した。2020年9月29日第27刷の文庫本で、1994年発表の小説だが、本自体は真新しい新刊だった。
小川さんの小説には閉ざされた世界がよく出てくる。この小説の舞台は、さほど大きくはないとある島で、島という設定がすでにある閉塞感を醸し出している。その島ではある日突然そこにあったはずのものが消滅してゆき、その存在と記憶までもが消滅してゆくという。忘れっぽい島民たちの多くは、不思議なほどの従順さでその消滅に順応してゆく。それはある時は鳥であり、バラであり、フェリーであり、本であり、身体のどこかであったりする。その消滅が他の人のように浸透せず、それらが存在しなくなっても記憶を失わない人間たちは秘密警察による記憶狩りの標的となる。主人公は小説家であり、彼女が書く小説のストーリーとこの作品のストーリーとが、入れ子構造のように濃密に絡み合いながら展開してゆく。それはまるで、鏡に映った実像と鏡像のようであり、外界(外部)と内面(内面)の二重構造のようにも感じられる。それらは似たようなものでありながら同一ではなく、また外界の状況の変化は、主人公の書く小説にも影響を及ぼさずにはおかない。
日々何かが消滅してゆき、食べるものも不足してゆく島に暮らす閉塞感は、気がつけば、もはや今の私にとってもなじみ深いものだ。近海の海水温の上昇などで品薄となり、我が家の食卓からはタコやサンマが「消えた」。あるいは、世界大戦下もこんなふうであったのだろうか。そして、年明けからはペストなどの伝染病の厄災のようなコロナ禍で、数カ月前に当たり前だったことがもはや困難であっても仕方がない状況だ。マスクのある生活しかり、人との距離しかり、旅行やグルメやショッピングなどの楽しみも、慎重に検討しなくてはいけない。日々何か失われつつあるのは、今の私たち自身なのではないか。それは私の中にあって気づかなかった裂け目(ほころび)のようなものを可視化してゆく。主人公の母親のように、記憶を失うことのない編集者R氏を自宅に匿うことで、閉塞した状況はより一層具体的なものものとして描かれている。R氏に思いを寄せながらも、記憶を失って空白の中で生きざるをえない自分や「おじいさん」と、濃密な記憶とともに生きるR氏との間には埋めようのない距離があり、その虚しさはR氏に伝わることはない。
小説を書くということへの情熱さえ消滅してゆく閉ざされた状況のなかで、左足が、次には右腕が失われてゆく。「身体性の喪失」はまた、今日的感覚とも共振する。テレビ電話は便利だけれども、会うことができないという状況がそこにはある。画面の中のバーチャルなリアルさを現実と置き換えて我慢しなくてはならず、今のところはそういった不便さに慣れていかなくてはいけない。匂いや温度や湿度や空気などは画面からは漂ってこないが、そのうち「似たようなもの」で補われてゆくことだろう。もちろん、コロナ禍にあるこの閉塞的状況ですら、後から振り返れば、よりよき何かへ移行してゆくプロセスであっつたらいいのだが。
ところで、記憶のみならず、失われてゆく身体とは、病気や老いてゆくということとも重なりはしないだろうか。万人に訪れる「生・老・病・死」という、ときに緩やかで、残酷な過程。生から死への移行をなぞるような消滅のプロセスを、この本に重ね合わせて見ることもできるかもしれない。最後に失われるのは「声」であり、それは存在の消滅でもある。失われてゆく声の中から、「わたし」はR氏の隠し部屋に横たわる抜け殻となった自分の身体を見下ろす。まるで、臨終のときに魂が抜け出た体を見下ろすように。
この小説の最後で、「さよなら」というわたしの声の消滅の後、R氏が隠し部屋から外の世界へと出てゆく場面は救いである。光が差し込んでくるような、祈りのような、一縷の望み。
そして、今から三十年ほど前に出されたこの小説には、「地震」と「津波」が描かれている。地震列島とも呼ばれるこの島国にはなじみの深かった言葉。けれど、忘れたころにやってきたその大きな自然災害が、自分の中にも痛みのような綻びを残していたことに、この本を通して改めて気づかされた。直接の被災者ではなかったにもかかわらず、それは他人事だったのではなく、まだ、癒やされてもいない。
表題の「密やかな結晶」とは何なのか?
それは記憶であり、小説(物語)であり、生きる意味のような形のないものなのかもしれない。主人公の母親が木から形を彫り出していったように、作者は形のないものから何かを彫り出してゆく。小説を読むという行為は、記憶の川の水に足を浸すように、そのストーリーや作者によって描かれた世界のなかに浸ることで、忘れていた感覚や気づかなかった思いを呼び覚ましてゆくことなのではないか。
数日をかけて読み終わった後、今ここにあることのかけがえのなさが、雪のように無音の世界に降り積もっていった。 (2020/11/13)