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読書散歩【1】小川洋子著『密やかな結晶』 (2020/11/13)
【1】小川洋子著『密やかな結晶』講談社文庫
2020年の英国「ブッカー国際賞」の最終候補作となった小川洋子さんの『密やかな結晶』を読んだ。この作品が2019年には「全米図書賞」翻訳部門最終候補作ともなったということは知らなかったが、今年のブッカー賞のニュースは他人事ながら嬉しかった。小川さんの数ある作品は割と読んでいるつもりでいたけれど、この本は家の本棚にはなかったので、早速購入した。2020年9月29日第27刷の文庫本で、1994年発表の小説だが、本自体は真新しい新刊だった。
小川さんの小説には閉ざされた世界がよく出てくる。この小説の舞台は、さほど大きくはないとある島で、島という設定がすでにある閉塞感を醸し出している。その島ではある日突然そこにあったはずのものが消滅してゆき、その存在と記憶までもが消滅してゆくという。忘れっぽい島民たちの多くは、不思議なほどの従順さでその消滅に順応してゆく。それはある時は鳥であり、バラであり、フェリーであり、本であり、身体のどこかであったりする。その消滅が他の人のように浸透せず、それらが存在しなくなっても記憶を失わない人間たちは秘密警察による記憶狩りの標的となる。主人公は小説家であり、彼女が書く小説のストーリーとこの作品のストーリーとが、入れ子構造のように濃密に絡み合いながら展開してゆく。それはまるで、鏡に映った実像と鏡像のようであり、外界(外部)と内面(内面)の二重構造のようにも感じられる。それらは似たようなものでありながら同一ではなく、また外界の状況の変化は、主人公の書く小説にも影響を及ぼさずにはおかない。
日々何かが消滅してゆき、食べるものも不足してゆく島に暮らす閉塞感は、気がつけば、もはや今の私にとってもなじみ深いものだ。近海の海水温の上昇などで品薄となり、我が家の食卓からはタコやサンマが「消えた」。あるいは、世界大戦下もこんなふうであったのだろうか。そして、年明けからはペストなどの伝染病の厄災のようなコロナ禍で、数カ月前に当たり前だったことがもはや困難であっても仕方がない状況だ。マスクのある生活しかり、人との距離しかり、旅行やグルメやショッピングなどの楽しみも、慎重に検討しなくてはいけない。日々何か失われつつあるのは、今の私たち自身なのではないか。それは私の中にあって気づかなかった裂け目(ほころび)のようなものを可視化してゆく。主人公の母親のように、記憶を失うことのない編集者R氏を自宅に匿うことで、閉塞した状況はより一層具体的なものものとして描かれている。R氏に思いを寄せながらも、記憶を失って空白の中で生きざるをえない自分や「おじいさん」と、濃密な記憶とともに生きるR氏との間には埋めようのない距離があり、その虚しさはR氏に伝わることはない。
小説を書くということへの情熱さえ消滅してゆく閉ざされた状況のなかで、左足が、次には右腕が失われてゆく。「身体性の喪失」はまた、今日的感覚とも共振する。テレビ電話は便利だけれども、会うことができないという状況がそこにはある。画面の中のバーチャルなリアルさを現実と置き換えて我慢しなくてはならず、今のところはそういった不便さに慣れていかなくてはいけない。匂いや温度や湿度や空気などは画面からは漂ってこないが、そのうち「似たようなもの」で補われてゆくことだろう。もちろん、コロナ禍にあるこの閉塞的状況ですら、後から振り返れば、よりよき何かへ移行してゆくプロセスであっつたらいいのだが。
ところで、記憶のみならず、失われてゆく身体とは、病気や老いてゆくということとも重なりはしないだろうか。万人に訪れる「生・老・病・死」という、ときに緩やかで、残酷な過程。生から死への移行をなぞるような消滅のプロセスを、この本に重ね合わせて見ることもできるかもしれない。最後に失われるのは「声」であり、それは存在の消滅でもある。失われてゆく声の中から、「わたし」はR氏の隠し部屋に横たわる抜け殻となった自分の身体を見下ろす。まるで、臨終のときに魂が抜け出た体を見下ろすように。
この小説の最後で、「さよなら」というわたしの声の消滅の後、R氏が隠し部屋から外の世界へと出てゆく場面は救いである。光が差し込んでくるような、祈りのような、一縷の望み。
そして、今から三十年ほど前に出されたこの小説には、「地震」と「津波」が描かれている。地震列島とも呼ばれるこの島国にはなじみの深かった言葉。けれど、忘れたころにやってきたその大きな自然災害が、自分の中にも痛みのような綻びを残していたことに、この本を通して改めて気づかされた。直接の被災者ではなかったにもかかわらず、それは他人事だったのではなく、まだ、癒やされてもいない。
表題の「密やかな結晶」とは何なのか?
それは記憶であり、小説(物語)であり、生きる意味のような形のないものなのかもしれない。主人公の母親が木から形を彫り出していったように、作者は形のないものから何かを彫り出してゆく。小説を読むという行為は、記憶の川の水に足を浸すように、そのストーリーや作者によって描かれた世界のなかに浸ることで、忘れていた感覚や気づかなかった思いを呼び覚ましてゆくことなのではないか。
数日をかけて読み終わった後、今ここにあることのかけがえのなさが、雪のように無音の世界に降り積もっていった。 (2020/11/13)