読書散歩【8】 村上春樹著『風の歌を聴け』講談社文庫2004年(2006年第8刷)2024/8/31

余談だが、NHKの大河ドラマ『光る君へ』が始まった。古文で読んだ『源氏物語』は意味も不確かなままに好きで、二度くらいは読み、瀬戸内寂聴の現代語訳でも読んでいた。そののち谷崎潤一郎の『新々訳 源氏物語』全十一巻を買ったが、途中止めになっていたので、この機会にそれを読了しようと思った。現在八巻目を手にしたところ。光源氏も亡くなり次の孫たちの世代に物語の主人公がバトンタッチされて……。と、ここで千年前の平安時代へのワープに急に息切れを覚え、一時休止的に現代に戻りたくなった。そして、手に取ったのが村上春樹訳の童話『空飛び猫』(アーシェラ・K・ル・グウィン作)。その次が、デビュー作『風の歌を聴け』である。

村上春樹氏の著作は、翻訳ものも含め、居間の本棚の一角を占めて家族間で共有されている。去年出た『街とその不確かな壁』もそこには並んでいる。『風の歌を聴け』は、今は老成した作家の四十五年前のスタート地点であり、何よりもかつて若かった(とはいえ30歳くらいだっただろうが)作家が書いた小説である。「若さ」ということにこだわりを持つのは、私自身が「老い」を意識しているからでもあるだろう。人によって感性は異なって当然だが、若かった作者は何を考え、何を感じ、それらをどのように言葉やストーリーに託していたのか。

読み始めて私が呟いたのは「この本、読んだことがなかったんじゃないのかな」だった。「年取ると物忘れがひどくなって、あるよね。そんなこと」といった慰めの言葉が飛んできかねなかったが、まず、始まりの第一章からして、一字一句が私に鋭い問いを投げかけてくるようでもあった。作者が好きな野球には疎いけれども、さあ、この球はどう受け止める?それは読んでいる誰かの心にヒットするのか、内野ゴロとなるのか。

「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。」

というアメリカの作家デレク・ハートフィールドの言葉で、第一章は始まる。「僕」という一人称の主人公が作者とイコールではないだろうが、「僕」は文章についての多くをハートフィールドから学んだという。不毛な作家だったが、「文章を武器として闘うことができる数少ない作家の一人」と「僕」は評している。そのあと、三人の叔父のエピソードや祖母の話も出てくるが、初めての小説の出だしに、いわば自身の文章論を提示するというやり方は、少し風変りではあるかもしれない。そのうえ、このハートフィールド氏は架空の人物でもあり、ナイーヴな読者は、出だしからまんまと一杯食わされる。

 それから小説は、21歳の夏休みを地元の港のある街で過ごした学生のひと夏を描くが、それは29歳になった僕の回想でもあるということが最後のほうで示される。

「僕」の三人の叔父が漂わせる第二次世界大戦の影。過去に付き合った三人の少女との性と死のエピソード。ハートフィールドの『火星の井戸』という「火星の表面に無数に掘られた底なしの井戸に滑った青年の話」の井戸。ビールと愛車とレコード。心か体を病んでいる少女。壁を前にしてでもいるかのように、たどり着くことのできない、報われない想いのようなもの。「鼠」というあだ名の友人。以後の小説を読んだ者には馴染みのあるそれらが、変容と展開を遂げる前の原石の姿で、すでにそこにはちりばめられている。

それにしても、一人の作家を読み続けているとして、一読だけで何かが分かるということはあるのだろうか。ストーリーの面白さや文章の巧みさで一気に読み上げることができ、満足感を得られるような本もあるだろう。  

けれども、何年も気にかかり、再び手に取った時に、まるで新しい作品に出会ったような錯覚を催してしまうのは、私の場合には、この作家以外にはそういないかもしれない。

そして、改めて気づくことだが、ここに描かれた若者たちの世界には、思っていた以上に死の翳りが濃い。そしてまた、病の翳りも。能天気な溌剌さとは縁遠い、何か諦めきったような、と同時にやるせないような心の悶えのようなものが、時に軽口や悪ふざけに興じる彼らの、けだるい夏の暑さには潜んでいる。

「そんなわけで、僕は時の淀みの中ですぐに眠りこもうとする意識をビールと煙草で蹴とばしながらこの文章を書き続けている」

全てをなかったことにして、時の淀みの中で眠りこめたらどんなに楽だろうか。けれども、それはどんなに空しいことでもあるだろうか。「僕」の手が握りしめたペンが、しだいに黒光りのする冷やかな武器に見えてくる。