読書散歩【7】ル・クレジオ『砂漠』(2009年河出書房新社/望月芳郎訳)2023/09/04

 この本を図書館で借りて何度か読もうとした。けれど、どうしてか読み進むことができず、途中放棄していた。それはたぶん、少女ララの住む砂漠の有様を描写しているくだり、まるで広大な砂漠のように果てしなく続く記述に、ついて行けなくなり、押し寄せる眠気の波に襲われていったのだろう。

 ジャン=マリ・ギュスターヴ・ル・クレジオ。1940年フランスのニースに生まれ、父と母はモーリシャス島にルーツをもっていた。8歳からナイジェリアにも住み、イギリスで学業を修めた後、メキシコのインディアンの文化に系統した作家。その複雑な来歴に惹かれたこともあり、『黄金の魚』『オニチャ』『地上の見知らぬ少年』『海を見たことがなかった少年(モンドその他の物語)』『物質的恍惚』『調書』『大洪水』『黄金探索者』『隔離の島』など、制作年月順ではないにしろ、目につく限り、ル・クレジオの作品を読んできた。中には購入した本も数冊ある。

 けれども、『砂漠』は未読のまま、それから年月を経て、今度はようやく読み通すことができた。なぜなのか?一つには、この本を購入し、返却などの時間の制限を気にすることがなくなったこともあるだろう。むしろ時間という枠を越えることで、かえって砂漠の世界に入り込むことができたのではないか。さらには、ル・クレジオの他の作品を読んできたことで、『砂漠』を読む下地のようなものが、知らない間に私のなかに形成されていたのかもしれない。

『砂漠』(1980年)は彼の中期の作品で、サハラ砂漠のベルベル人(ツァレグ族「青い民」)の少年ヌールと、その子孫である少女ララの物語が交錯してゆく。ストーリーを追う以上に、そこに描かれた砂漠そのものをララの感覚を通して味わうこと、ララとともに砂漠の美しさに心打たれること、そして、生きようとするララの眼差しの向こうに蜃気楼のように現れる何かに思いをはせること。あるいはヌールとともに、キリスト教徒との闘いのために     大族長たちと砂漠を旅することの過酷さ、得られることのない「水」を求める旅の虚しさを感じること。そうしているうちに、分厚い一冊は終局へと至った。あとがきで訳者の望月芳郎氏が述べた「純粋記述」――ル・クレジオ自身が「私は言葉によって見る」と述べたもの――に、翻訳を通してであれ、かすかに触れることができたのかもしれない。

 次に読みたいル・クレジオの本は?そして彼が今書こうとしているのはどんな本なのか。新しい世界との出会いが待ち遠しいようでもあり、先延ばしにしたくもあるような。ル・クレジオへの私の回路はいまだ開かれてある。